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環境・術

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タイトル:環境・術
時期:2008年11月22日(土)〜11月23日(日)[/caption]
場所:ヒルサイドテラスA棟(東京代官山)
参加者:秋福音(あきふくいん 音楽ユニット) / 岩崎 貴宏(美術家) / 尾上 祐一(音楽家) / 鈴木 明(建築家) / 芹沢 高志(アートディレクター) / 平田 哲朗(美術家) / 藤 浩志(美術家) / 安冨 歩(社会科学者) / 柳 幸典(美術家) / 山本 高之(美術家)
主催:特定非営利活動法人アーツイニシテアティヴトウキョウ[AIT/エイト]


Green Practice
Saturday,22 November, Sunday,23 November 2008
Venue: HILLSIDE TERRACE ANNEX A
Participant : Akifukuin / Takahiro Iwasaki / Yuuichi Onoue / Akira Suzuki / Takashi Serizawa / Tetsuaki Hirata / Hiroshi Fuji / Ayumu Yasutomi / Yukinori Yanagi / Takayuki Yamamoto
Organized by : Arts Initiative Tokyo [AIT]


環境・術とは?

環境を問題化するという問題

20世紀をとおして、「環境」は、私たち、あるいは私たちが依存する社会によって生み出され、世界的に取り組まれるべき対象となった。しかし、その問題解消の可能性は、私たちが信じる社会システムにはほとんど見出されない。このような社会的背景で、AITは<環境・術>というプロジェクトを起こし、芸術の「術」という性質をとおして、「環境」に対する新たな働きかけを探った。私たちが考える「環境」とは、破壊され汚染された特定の領土ということではなく、むしろ地球全体の生態やその運動といえるだろう。それには、自然はもちろん、私たちの社会のあり方や運動、そして私たちの考え方や態度も含まれる。これを回復するために、私たち一人ひとりが、環境を問題化してしまう社会のあり方に疑問を持ち、想像力を働かせ、「術」を実践してゆくことが必要なのではないかということを考えてみたいのである。

快適さのシステムを疑え

私たち、現代人の生活は、とにかく便利で快適だ。あらゆる最先端のテクノロジーによって生活環境をちょうどよいものに設定できるし、食べ物だってスーパーに行けば一年中同じものが手に入る。交通システムの発達によって、移動も一昔前よりは格段に速く楽になった。そして、通信ネットワークは世界を包み込み、国境を軽く超えていつでもどこでも他者との接続を可能にした。しかしながら、考えるまでもなく、その便利さや快適さは、「富の積み重ねに余念のない資本主義社会のあり方とそれを構成する私たち」にとってのものでしかない。それは、一方で私たちが、それ以外の価値を切り捨てながらなりふり構わずモノやサービス、またそれらの循環を根本的に支えるインフラやエネルギーを生産・再生産してきたということでもある。この社会のあり方は、テクノロジーの発達によって圧縮される時間感覚とともに、ミレニアムを待たずして地球規模にまで膨れ上がった。しかしながら、それが落とす暗い影もそれに応じて広がったことはいうまでもない。巨大な資本によって行われる過剰で局所的な資源の接収はこの惑星の生態バランスを崩し、一方で富が蓄積される都市では人々は時間に追われながら、薬品によって生産され、味を調えられ、延命された食料品でエネルギーをとり、多種・多様・多量なモノとゴミを産み出し、膨大なエネルギーで自然を少しずつ傷つけながら移動や生産を行っている。私たちの快適さは、基本的な生存条件の消滅を先送りにしたところにある、実に歪なものだ。そうした疲れきった環境を問題化してそれを取り戻そうと声高に唱えるのは、この非対称な世界づくりを牽引してきた国家や企業だが、サミットなどの国家間協議や企業努カのみを頼りにしてしまうと、その本質的な問題を見誤ることにもなる。というのも、相変わらず富の産出と積み重ねが社会の基本原理となっているところで環境の危機を叫んでみても、その解決案には「資本主義社会を維持できる程度に」という留保がつきまとうからだ。それは、例えば、世界規模の気候変動に関する対処案をまとめた京都議定書などで議論の中心となっている地球温暖化の解決案を見ればいい。そこでは、温室効果ガス排出の徹底的な規制ではなく、あくまでも合議的に定められた基準値に照らし合わせて目標化された「削減」となっている。つまり、例えば自動車はCO2を排出するとはいえ、自動車産業はあらゆる経済や産業との影響関係のもとで成立しているため、即座に全世界的に自動車を撤廃するといったことにはなり得ないわけである。

私たちは、環境がおかしくなっているのを知りながら、私たちの生そのものを支える産業や経済、社会システムの抜き差しならない関係によって、それを根本的には改善することが難しくなっている状況に向き合い、どのように生き抜いたらよいのだろうか。

主観の回復とエコロジー

社会によって生み出される「環境問題」に解決の糸ロが見出せないながら、それでも環境の間題に目を向けていかなければならないことを意識するとき、個人の主観を回復するということがますます重要な意味を帯びてくるだろう。それは、社会による環境への働きかけと経決方針の不全さについて日々の生活において気づき、それとは別な私的な働きかけの方法を探ってゆくということである。たしかに、それにはある種の困難がつきまとう。というのも、私たちの考えや身体は、まさにこの社会によって作られ、基本的にそれに依存せずには成り立ち得ないものになっているからだ。しかしながら、私たちはそういった条件の下で何とかしていかなければならないことも事実である。そこで、まず一人ひとりが、国家や企業ではできないような方法で具体的に環境に働きかけることができる、と考え始めてみよう。もしかしたら、そこに、途方もないものとして数値化され、対象化され、揺るぎがたいものとなってしまっている現在の環境問題を、ゆっくり溶かしてゆくきっかけがあるかもしれない。このような考え方は、20世紀後半からいわれていたことだが、ここでエコロジーを総合的に論じたフランスの精神分析医フェリックス・ガタリの声に耳を傾けてみることは有効だと思われる。彼は、エコロジー的な実践についてこういう。「エコロジー的な実践は、それぞれの部分的な実在的根拠地において、主観化(主体化)と特異化の潜在的ヴェクトルを見つけ出そうとする。」¹これは、私たちの主観性を作り上げて束ねている資本主義的なシステムから抜け出しつつ、新たな主観性を行為として表現してゆくことだ。ガタリは、環境の問題を、目に見える生態系の破壊や変化といった物理的で外的なもののみとしては捉えなかった。そうではなく、自然環境を中心とした「環境的エコロジー」、社会のさまざまなレベルで形づくられる、私たち集団の生存のしかたとしての「社会的エコロジー」、そして社会システムに批判的に接することで現れる、個人の新たな考えや身体の表現、そしてそれらの関係性を再創造するものとしての「精神的エコロジー」という複合的な視点から捉えたところに、その問題の複雑さを見てとると同時に、社会の上部構造のみに問題の解決を委ねておくわけにはいかないという基本的な対処のしかたを見出している。また、それだけではなく、個人から個人へ再主観化が連鎖的に編成されるところに、根本的な解決を見ていることも興味深い。つまり、社会を見渡して統合的な目的がないにも関わらず、個人の違和感や不信感が表現され、それがつながりながら運動してゆくことに、環境を問題化した社会のあり方と同時に問題化された環境を変化させてゆく契機を見据えている。

川や沼が汚染されつつ、見慣れない外来魚を目にするようになったこと、高速道路の料金が安くなった一方で、自然と自動車に乗る機会が増えつつあること、あるいは、時間に追われる生活を強いられるなかで便利さや快適さを求めるあまり使い捨ての習慣ができてしまっていること、そういった状況に対しておかしいと思うこと。環境の問題は、実に具体的な自然あるいは物理的な現象としてあり、社会構造から生まれるものとしてあり、そして私たち一人ひとりの考えや身体的実践にもある。私たちは、主観性を回復し、それらの見直しを図り、いずれかに関わりを持ち始めなければならない。

エコロジーと芸術

自然や生活環境がおかしくなっていることに気づき、これまでとは違う環境への働きかけを実践してゆくことにおいて、芸術ができることは大きいといったら嘘になるだろうか。アートという語には、もともと「術」という意味が含まれている。それは、目のまえに広がる世界がどのようなものかを捉えて表わしつつ、それを共有する人々の意識に働きかけ、状況の変化を促す技術や技芸と考えることもできるだろう。ここでは、芸術は、それを限定的で硬化させる制度的な主義主張や概念はもとより、絵画や彫刻などといった形式や媒介物には限定されえない。むしろ、「術」としての性質が十全に発揮されることに、その形式は従うと考えることができる。20世紀初めの哲学者のアンリ・ルフェーヴルは、「ありのままの世界」を捉えて人々に投げかける手段としての芸術に注目し、その社会における可能性について考える。「もはや神話はない。イデオロギー的幻想も抽象もない。したがって認識がある。そして広大な現実、そこから汲みとるべき・・・。(中略)いままで芸術家は、これほど多くの、これほど強力な手段をもったためしはない。しかし、これらの手段はあたらしい。そして手段であって、もはや媒介物ではない。これらの手段とは何か。弁証法的唯物論であり、世界を変革する行動であり、世界を変革する人びと、その(政治的)前衛との生きたつながりである。」(挿入部は筆者による)²このような芸術は、与えられている社会や制度を超えてゆく想像力と創造性を生み、「ありのままの世界」を映し出し、同時にそれに対する関わり方を示唆する「術」となる。この「ありのままの世界」を「環境」と言い換えることは、そう難しいことではない。芸術家は、知り、経験しうる世界から表現を起こし、それによってその世界を変化させてゆく存在になる。また芸術は、鑑賞されるものから、人々と共に生きられるもの、つまり「行動」や「変革」、「生きたつながり」の形成といった、それに関わる人々によりよく生きる方法を知らせ、活性させる表現の過程にその本質が認識されるようになる。

このような「術」は、芸術家のみに許されるものではなく、むしろ世界を変えようとする人々へ波及し、運動を形作ってゆく可能性を含み持っているといってもいいだろう。社会学者であるミシェル・ド・セルトーは、20世紀の後半に現れた高度消費社会において、「個人に残されているのはただ、この(資本主義的)システムを相手どって狡智をめぐらし、(中略)いにしえの狩猟民や農耕民たちが身につけていた『術策』をみつけだすことである。」とし、(挿入部は筆者による。)³ 個人が広大で強力な社会システムに対して仕掛ける「術」の実践に社会の変革の可能性を見ている。それは、取りも直さず、積極的な主観化により、社会の通念や常識、あるいは規則をつくり上げている制度や権力を出し抜くことといってもいいだろう。その「術」は、瞬間的であったり、私的な空間で行われたり、社会空間の秩序を乱すものであったり、必ずしも公開されうるものとしての制度的な芸術にはなりえないが、そのささやかな行為には芸術の種が少なからず眠っている。

芸術家は、公共的に「術」としての芸術を実践し、個人はそれを受けながら私的な「術」であらたな働きかけを見出しながら自然や社会環境を再創造してゆく。この両者に隔たりはなく、また最終的な目的もない。そしてそれらは、考え方を鍛える場、スケールを超える想像力を誘発するイメージ、生き延びるための手段、直接環境に働きかけて直してく技、あるいは環境問題を生み出した歴史を反省させる装置や機能的なものとして、立ち現れつつ、社会のさまざまなレベルにおいてそうした「術」のつながりを生んでゆくのである。

「術」で環境に働きかける

2008年11月22日と23日の二日間にわたって開催されたイベント<環境・術>では、環境問題を解消する可能性が、この環境を共有する一人ひとりの考えや実践自体にあること、そして、それらを「術」としての芸術をとおして身につけることが、レクチャーやトーク、ワークショップなどのプログラムをとおして検討された。

見方を変えれば、芸術を支えている制度は、環境問題の解消とは相容れない側面がある。展示のための壁や棚などの構造物、また表現を支えている媒介物や機材も時が経てば廃棄される運命にあるものも少なからずある。そこで、この<環境・術>では、私たち運営側も制作過程から「すでにあるものを借りる」あるいは「できるだけ自分たちで行う」、「できるだけゴミを出さない」という「術」を実践した。会場には、有志から提供されたラグを敷き詰め、建築家の鈴木明氏のワークショップで建てたベニヤのドームをそのままアーカイヴの展示などに活用した。また、1971年にニューヨークのソーホーでアーティストの手によって生み出されたコミュニティー・カフェ「FOOD」を倣って自主的にカフェを運営し、エコロジー運動の歴史やアートをとおした実践を再現した。また、レクチャーやトークでは、近代社会の到来と環境問題の関係性、そしてそれを解決する方法について、幅広く歴史や都市、経済、教育、産業などの要素や、身近な経験から得た疑問や違和感などをとおして議論された。ワークショップでは、私たちがおかれている環境へと想像カや思考を誘う考え方や技術を学び、実践した。また、音楽ライブにおける自作楽器での演奏や来場者との即興演奏などは、誰もが想像力を発揮して創造者になりうるということを示した。

環境の問題への取り組みは、それ自体が自由な想像力と実践の抑圧や妨げになってはならない。この<環境・術>で話し合われ、行われたことは、いずれも、出来るところから、与えられている環境問題とその解決方法を疑いつつ、楽しみながら自分のものとして環境を想像し、実践に移すことがポイントとされた。

ユーモアと笑い、そして鋭い示唆に満ち溢れた<環境・術>プログラムをすべてここでお伝えできるかどうか分からないが、少なくとも環境問題に対する私たちの態度とそれに対して芸術ができる方向性は示すことができたのではないかと思っている。そして、これを手にする人々が、何らかの形で私たちが発した議論に思いを巡らすことがあるならば、きっとそうした意識が実践を生み、共感を呼び、やがては社会のあちこちに響いてゆくことだろう。その時を楽しみにしつつ、まずは足元から<環境・術>を始めてみたい。

小澤 慶介(AIT)

注)

1 フェリックス・ガタリ、杉村昌昭訳、『三つのエコロジー』、平凡社、2008年、P35

2 アンリ・ルフェーヴル、多田道太郎訳、『美学入門』、理論社、1971年、P178、P181

3 ミシェル・ド・セルトー、山田登世子訳、『日常的実践のポイエティーク』、国文社、1987年、P.34-35


On Green Practice

Green Practice is a project organized by Arts Initiative Tokyo on the theme of ecology and art, using the notion of ‘practice’ as a guiding principle. Over two days from November 22nd and 23rd 2008, lectures, workshops and music performances were held on the basis of an ecological attitude towards curating that strove to minimize rubbish and re-use existing materials and spaces.

The primary approach taken by this project considers ecology from the perspectives of subjective experiences and attitudes rather than as branded terms related to national or corporate initiatives. As the philosopher Felix Guattari says, this reflects an attempt to create different subject formations which burst out from those largely constructed by capitalist systems. Within this we hope to look at the highly productive practices of art-making.

Art practices have the capacity to reflect things as they are by moving beyond the bounded structures of given structures and systems, as well as offering multiple techniques and ways to achieve these ends. This position does not rely on forms of representation but rather presents opportunities to expand the imagination and propose ways of living. In this way, we hope to reflect on and critique the situations which have produced current ecological problems. Larger social and economic systems may perhaps begin to change because of the increasing awareness and proliferation of such attitudes and practices.

Text by Keisuke Ozawa